映画『天気の子』:香川在住の30代ヨガ男子が受けた印象

2019年8月12日月曜日

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8月11日(日)、香川県の綾川にあるイオンシネマで、新海誠監督の最新映画『天気の子』を観た。

正直なところ、前作の『君の名は。』に比べて「内容が浅いなあ」と感じた。

ただ、なぜ自分がそう感じたのかを掘り下げると、そもそも『君の名は。』のどこに自分が感動したのかも、より明確に見えてきた。

ここでは、そんな話を書きたい。

※一部ネタバレあります。

伝統に連なる三葉と、身近な人以外のつながりがない陽菜

『天気の子』は、祈ることで天気を晴れにする力を持つヒロイン、陽菜をめぐる物語だ。

こうした魔法めいた力は、『君の名は。』のヒロイン・三葉にもある(彼女は、糸守町を救う「入れ替わり」の奇跡を起こす存在だ。)

ただ、陽菜と三葉で、魔法の現れ方は、かなり違う。


三葉は、糸守の町で1200年にわたって続く神社の巫女だ。彼女の家では、1200年ごとに襲来する隕石から町を守るため、代々、不思議な力を受け継いできた。

その力を発現させるにあたっては、彼らが伝承してきた伝統工芸品「組み紐」が起点となる。

そして、この「組み紐」は、さまざまな”つながり”の象徴でもある。

家族や友人、同じコミュニティの人たちはもちろん、遠方にいる瀧くんのような存在とのつながりもあるし、ご先祖さまといった、過去世とのつながりでもある。

さらに、糸守という特定の地域に根差した文化であることで、地域の自然とのつながりもあるだろう。

「あなたは1人じゃない」。そんな安心感と温かさ。三葉の起こす奇跡は、彼女1人の力ではなく、つながりの力なのである。


その一方で、『天気の子』のヒロイン陽菜は「天気の巫女」だが、彼女は周りの世界とのつながりが弱い。

母が亡くなる日にたまたま立ち寄った廃ビルで、屋上にあった鳥居をくぐった時に、奇跡の力を身に付けただけで、どこかの伝統やコミュニティと深く結びついた力ではない。


奇跡の力が、実際にあるかは分からない。

ただ、『君の名は。』のように、さまざまな人の思いが重なり合うことによって、世界が少し変わること。それは、リアルでも起きうることなので、共感しやすい。

それに対して、『天気の子』は、サブカルチャー用語でいうところの「セカイ系」、つまり「1人の少年と少女の思いだけで世界が変わる」という考えをベースにしたストーリーに見える。

世間の荒波(?)にもまれて生きている30代男子としては、「そんなこと、あるんかいな」という気分になるのである。


伝統への憧れ

と、まあ批判的なことを書いたが、こう感じるのは、伝統のない地域で育った僕個人の事情が影響しているだろう。

僕は、東京近郊の、サラリーマンが住む新興住宅街で育ったので、夏祭りで神輿を担いだような経験もなく、歴史や土地に紐づくような形のアイデンティティが薄い。

そう言う点で、「何世代にもわたって受け継がれてきた思い」みたいなものにロマンチックな感情を抱く傾向がある。


ただ、伝統が息づいている地域に育った人の場合、「伝統なんてウザいよね」という話になるだろう(『君の名は。』の三葉もそう感じていた)。

伝統は、都会的な「個人の自由」とは真っ向から対立するものだからだ。

きっと、「田舎の閉塞的な人間関係なんて大っ嫌い」と感じていて、東京の自由な雰囲気に憧れる人は、『天気の子』により共感ができるのではないかと思う。

(『天気の子』主人公の帆高がまさにそうした少年で、彼は是枝監督『誰も知らない』のような状態になっていても、「東京の方が、田舎よりマシ」だと思っている)


「個人の自由」と「伝統(共同体)」の問題は、近現代の哲学の大きな問題だ。

ただ、何事もバランス主義の自分としては、「自由の良さ」「共同体の温かさ」をできる限り両立させるような在り方が理想じゃないかな、と思うのである。

そういう意味では、『君の名は。』は、ある種のバランスも感じられたのかもしれない。


『君の名は。』は、「伝統を色濃くもつ地方」と「伝統を持たない東京」を行き来する物語だ。

さらに、三葉と瀧は、自分たちの恋を大切にしつつ、社会にもしっかりつながっている。

例えば、クライマックスの「かたわれどき」で瀧と別れた後で、走る三葉。

「町を守りたい」という思いと、「あの人の名前が思い出せない」という個人的な悲しみの間でもがく姿に、深く心を動かされた。

あるいは、瀧くんが就職活動の時、糸守のことを踏まえて「人の心に残るような街の風景をつくりたい」と言っているシーンも、よかった。



「雨が降り続く世界」への違和感

このほか、『天気の子』に感じた違和感について書きたい。

まず、異常気象の問題は、日本・世界ともに「熱波」「干ばつ」の方が大きいのではないかと思う。

(「水戦争」という言葉があるが、21世紀は水をめぐって戦争が起きることが懸念されている。東南アジアから中国にかけて流れるメコン川などでも、水利権の争いが起きている)

そういう意味で、『天気の子』の「雨が降り続く」状況に、今一つリアリティを感じづらかった。


あと、「水没した町でもたくましく生きている人々」を描いてくれたら、この物語からもっと希望を感じることができたのに、と、個人的には思った。

『天気の子』では、「3年もずっと雨が降り続いている」わりには、人々が普通に生活をしている。

ただ、太陽を浴びることができなければ、人体は、抗鬱に必要なセロトニンといった物質を生成できないので、都内にうつ病がまん延するだろう。そういう点を、どう解決するのか。

感情移入できる物語というのは、ディテールの積み重ねが大事だと思うけど、こうした点にも、もっとリアリティを出してほしかったのである。

(まあ、「未来への希望」を持たせたり、共感してもらったりすることが、新海監督の狙いでない可能性もあるが)


そんなことを考えながら、映画が終わってイオンを出たときだ。

「わあっ」と、思わず歓声を上げそうになった。

18時ごろで、ちょうど夕暮れが始まる時間帯だった。山を背景に、世界が紅く染まっていく。

取り立てて特別な光景ではないはずなのに、そんな日常の奇跡に感動を覚えた。


「愛にできることはま~だあ~るよ~♪、僕にで~きることはま~だあ~るよ♪」

と、さっき映画で聴いた音楽が、脳内に再生された(RADWIMPSによる主題歌『愛にできることはまだあるかい』です)。


やっぱり、日の光を浴びると、人間、元気になるなあ。

世の中いろいろあるけど、ボクにできることも、まだあるかもしれへんで。

なんの根拠もなくウキウキ気分になって、帰りの車中、RADWIMPSを歌を関西弁にして鼻歌を歌っていた。

そうしたら、帰り道を間違えてエライ目にあったことも、最後に付記しておきたい。





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