できたてのご飯から、湯気と香りが立ち上る。
そこにふと、朝の光が柔らかく入り込んできた。
(僕の部屋は北向きなので、日光は射し込まない。それでも、窓から光が、さざ波のように打ち寄せてくる)
朝の光を浴びて、少し輝いているようなコメを見て、ふと、
「ご飯を食べられるって、ありがたいことだな」
という感慨がこみ上げてきた。
脳の中の嵐を沈める
僕は、朝ごはんはいつも一人で食べている。
一人で食べていると、だいたい、口を動かしながら頭に別のことが浮かんでくる。
「昨日、あれをやり忘れていたな」
「今日、あの企画を立てなきゃいけないけど、なんもアイデアないよ。どうしよう」
「あの案件、ちっともスケジュール通りに進んでないし・・・憂鬱だな」
放っておくと、脳内は心配ごとで嵐のようになる。
だが、「ご飯を食べられてありがたい」と感じた時に気づいたのは、
「そもそも、このために仕事をしているんだよな」
ということだ。
ご飯を食べるということは、日本では、あまり重視されていないように思える。
例えば、エンゲル係数が高いのは、生活水準が低い証拠だと考えられている。
ネットで調べると、「メシを食うのが遅い奴は、仕事ができない」といった意見も出てくる。
「寝食を忘れて●●をする」という言葉もある。
夢中になれることのために、寝ることや、食べることは二の次であってしかるべき、という考えだ。
でも、よく考えてみると、食べることは生きることの基本だ。
会社がある。仕事がある。でも、その前に、そもそも僕たちが生きているから、仕事をすることができるのだ。
逆にいえば、仕事がなくても、食って生きていれば、まあ、いいとも言える。
もともと、人間は自給自足をしていたのだし、食って生きていれば、やり直しも効くかもしれない。
「あの人に嫌われちゃったけど、まあ、とりあえずご飯が食えているから、いいか」
くらいの開き直りをしてもいいのではないか、という気がする。
日本人は、食前に「いただきます」と言う。キリスト教徒も、神に感謝の祈りをするという。
ご飯を見つめて、一瞬、「今日もご飯を食べられることに感謝します」と思うことは、自分の根本的なところに立ち返る小さな儀式のようなものの気がする。
また、ご飯というのは、自分と世界をつなぐ架け橋のようなものだ。
ご飯を作ってくれた人がいて、僕はご飯を食べることができる。
ご飯となった植物や動物がいて、僕はご飯を食べることができる。
ご飯となった植物や動物を育てた、太陽や水、土があって、僕はご飯を食べることができている。
仕事を通して、誰(人間以外の存在も含めて)に、どう役立ちたいのか。
どうつながりたいのか。
食べることに深く思いを致すことは、そうした問いかけに立ち戻ることだ。
それが、精神的に大変な状態を乗り越えるきっかけにもなるのではないか。
玄米をおいしく食べる方法
僕は1年半くらい、玄米食を続けている。
お金をできるだけ使わず、かつ、しっかり栄養を取る。
その方法を色々考えた結果、これが一番リーズナブルだと思うようになった。
ただ、普通に食べると、当然、白米のようにおいしくはない。
そこで、折に触れておいしくする工夫を試みてきた。
今の段階で行っているのは、2つある。
一つは、前日からお米を水に漬けておくこと。
夜、寝る前に明日の朝のご飯をセットする。その時、併せて明後日のご飯にする分を、水に漬ける。
そうすれば、合計で30時間くらい浸水させることができる。
すると、ほとんど白米と変わらない柔らかさとなるのだ。
第二に、色んな野菜を入れて、炊き込みご飯にすること。
数ヶ月ほど前、ある占い師から
「あなたは体温低すぎ。体温めるものを食べなさい」
と怒られることがあった。
これをきっかけに、体を温める野菜をできるだけ取ろうと思うようになった。
今入れているのが、大根、にんじん、生姜、時々玉ねぎである。
おにぎりにして昼に食べる分に関しては、フリカケと、ゴマを入れる。
とくに生姜(すりおろし器がないので、単に細かく切っているだけ)の効果は大きい。
生姜たっぷりのご飯を食べ、暖かいお茶を飲むと、深く体があたたまるのを実感する。
体があたたまると、色んなことに対して、「さて、やるか」という気分になる。
生きてご飯を食べられることに、改めて感謝しようと思うのである。
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