金にならない虹の美しさを見つめて

2021年8月22日日曜日

ヨガ・マインドフルネス

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社会人になってから、数年に一度、己の生き方を見直す時期が訪れる。

香川県三豊市に移り住んでから2年半。今ちょうど、そういう時期となった。



人生を考えるときに、自分がまず行うのは、本を読むことと、人と話すことだ。どちらも、今の自分の位置を客観的に見つめ直すのに役立つ。


そんなわけで、昨日の昼、同じく移住者の友人とカフェでランチをした。



「生き方を見直す」上で、今の悩みは、どんな仕事をして、いかにお金を稼ぐかだ。


今後もし家族を、子どもを持つことになったら、なにかと物入りになる。理想論だけでは子どもは育てられないだろう。


しかしこの日、友人との話は、それとは違う方向に進んだ。


※友人の話は、筆者の方で少しデフォルメしています。また、あくまで記憶に頼って書いたものなので、不正確な部分があります。


虹に映るこころ



「三豊に来て、心から良かったと思うことは2つあります。ひとつは自然が美しいこと、もうひとつは、地域コミュニティが小さくて自分の存在意義を確認しやすいこと」

「三豊に来て、空の美しさによく感動します。夕日がきれいな日は、近くのため池に行って、写真を撮ったり、空の色の変化を見つめたり……」


「でも、同時に思うんです。夕日の美しさなんて、金を稼ぐ上では大して役に立たないって。特に仕事がうまくいってなかったり、忙しくて余裕がない時は……」。


カレーを食べながら、自分はそんな話をした。


すると友人は、「みぞっち(筆者)は、昨日の虹を見て、どんな言葉を思い浮かべた?」と問うてきた。


香川県では先週から大雨が続いている。しかし昨日の夕方には、雨が上がって、濃紅の空に太い虹が立ち上ったのだ。


「虹を見て、どんな言葉をイメージしたか」。そんなことはこれまでほとんど考えたことがなかったので、新鮮だった。自分の中の澱んでいた水が、さらさらと流れ始めたように感じた。


少し考えてから、僕はこう応えた。


「僕は、『天につづく橋』のような印象を受けました。田んぼの向こうに見える虹が、雲の中に突き通っていて、まるで天国に続いているみたいに見えて」


「すると、『ここではないどこか』に通じているもの、というイメージだったのかな?」


友人は、一呼吸おいてから、


「あたしの方は、虹が自分の住んでいる場所をすっぽり覆うようにかかっていたんだけど、『肯定感』みたいな言葉が思い浮かんだよ」


と続けた。


それから、お互いが海外に暮らしていたときの話になった。


僕は学生時代、ロシアに約10カ月間留学していたことがある。その時に感じたことだが、


「どんな場所にも、日常生活があって、人が人生にいろいろな悩みを抱えていることは変わらないんじゃないか」


「だから結局、どこにいようと、日常生活にいかに向き合うかが人生の課題じゃないかな、って思うんです。もちろん、より自分に合った地域というのはあると思うけど」


友人も別の国に暮らしていたことがあるが、僕のその話を首肯してくれた。


しかし、彼女が傾聴してくれる中、僕のうちから、こんな言葉が出てきた。


ただ、物理的な意味ではなく、精神的な意味で、僕たちは、こことは違う場所に行けるんじゃないか。そんな気はするんです」



お金と生きる喜び。人生の振り子



生きるためにはお金が必要だ。紙幣や電子マネーでなくてもいいが、衣食住をまかなうための何かしらの生活資は、どこへ行っても必要になる。


で、今の僕は、それを手に入れるためにあくせくしている状態である。


でも、人生には、それとは別次元のものがある。


空の美しさや、子どもの笑顔。乾いていた心への慈雨。「生まれてきて良かった」と感じる瞬間。生きている意味が満たされるようなこと。


そうしたものを味わう瞬間は、お金にあくせくするのはバカバカしいと思える


でも、そうした時間が過ぎた後は、やっぱりお金のことで心配になる。


生きる喜びと、お金と。ぼくたちの人生とは、その間で揺れる、振り子のようなものかもしれない。



友人とのランチは2時間くらいに及び、いろんな話題を話したが、その中で僕は、自分の人生の転機になった出来事についても話した。


さまざまなきっかけがあったのだが、20代後半のある日、通勤電車の中で、


「他人に評価されなくても、まず生きていればOK」


「賢く生きなくていい。心のまま、愚かに生きたっていい」


そう感じ、バチンとスイッチが切り替わった。そして、子どもの時から執拗に続いていた自殺衝動が、この時を境にパタっとなくなった。それはまさに、自分の全存在が変容したような瞬間だった。



「でも、そんな経験をしても、今はまた、みぞっちはお金に捉われて、汲々としているわけだよね?」


嫌味ではなく、なにかを確かめるように、友人は尋ねてきた。

すると、忘れていたことを思い出すように、自分の中で、こんな考えが沸き上がってきた。

「たしかにそうなんですけど・・・。でも、それ以前とは、明らかに違うと思います。悩みは同じでも、それを捉える自分の精神的なステージが変わったというか・・・」


「あー、何か、螺旋階段を一段上ったような感じかな。」


「うん……。そんな感じかもしれないですね」



精神的なステージが変わるとは、どういうことか。


改めて考えてみたのだけど、それはこういうことではないかと思う。


つまり、若いころは、お金がないことに対して、ただ闇雲に不安だった。しかし、自分の人生観が見えてくるにしたがって、問題の位置づけも明確になっていく


苦しみというのは、結局、その問題の正体がつかめない不安から生じる。この場合、お金というものが自分の人生に持っている価値だ。


これが分かれば、お金がなくて困るのは同じでも、苦しみ度合が変わってくる。



正直なところ、自分は金を稼ぐことにそれほどの才覚はなさそうなので、お金の問題は一生ついて回るのだろうと思う。


今回の話を受けても、今後の仕事と金稼ぎの方法について考えなければならないことは変わらないだろう。


ただ、この根本のところを自覚しているかどうかで、いざというときの選択肢に違いが出てくるのではないか。




そして、少し飛躍かもしれないが、もし「豊かな地域」「よい地域」というものがあるとしたら、それは、そうした「気づき」を得させてくれる場所だということなのかもしれない。


そんなことを思った。








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