子どもの想像力と、大人の想像力

2019年10月6日日曜日

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瀬戸内国際芸術祭のアートプロジェクトの一環として集められた漂流物。普通は「ゴミ」にしか見えないけど、そのカラフルさに目を煌めかせている子どもたちの姿も。

アンパンマン

「あ、アンパンマンだよ!変な顔してるネ」

幼稚園生くらいだろうか。小さな男の子が、とて、とてっと走ってきて、はしゃいだ声をあげた。


瀬戸内国際芸術祭の秋会期が始まって1週間が過ぎた、この土日。

僕は、離島に友人を連れていったり、スタッフとして働いたりしていた。

島にいると、小さな子どもを連れた親子に会うことが多い。

それも、だいたいは、2人以上の子どもを連れているご夫婦だ。

こういう場合、小さい方の子どもはベビーカーで寝ているが、上の子どもは親の手を離れて、そこらを駆け回っていることも多い。

「ほーら、〇〇くん、そんなことしたらダメだよ」

そんな声も、あちこちから聞こえてくる。


関東にいた頃、子どもと触れる機会はほとんどなかった。

昼日中の東京のオフィス街を、小さな子ども連れで歩いている親御さんなどあまりいないものだからだ。

ただ、香川に来てから、小さな子どもたちの姿を見る機会が増えた気がする。


駆け回る子どもたちを見ていて、

「子どもって、不思議な反応をするものだなあ」

とつくづく感じる。

僕のいた会場には、港の近くに、地元の方がつくった手作りのアンパンマンや、タコ、キノコのオブジェがあった。

これらを見つけて、大喜びしてはしゃいでいる子どもたちが多くいた。


アンパンマン、というと、作者のやなせたかしさんの生涯には関心があるものの、アニメ自体はそれほど好きではない。

ほっぺたが妙に赤くて、まるまるしたアンパンマンの顔は、イケメンでも可愛くもないように思えて、ちょっと微妙な気持ちになるのが正直なところである。


ただ、今日、アンパンマンにはしゃいでいる子どもたちを見ていて、「彼らは、まったく違う目で、アンパンマンを見ているのかな」と感じた。

子どもの頃の想像力

考えてみれば、子どもの時と、大人になった今では、「想像力」のあり方が異なっているように思う。

僕は、冒険小説が好きな子どもだった。

そのせいか、小学生くらいの時は、桶に入っている水を見かけたら「すごい力が手に入る聖水かもしれない」、布団たたきを見たら「これは、魔物を倒せる聖剣だ」などと勝手に想像していた。

そして、自分が主人公のストーリーを、勝手に思い描いていたものである。

大人のように人生経験が少なく、フィクションでしか世界を補完できないためなのだろうけど、おかげで、世界が妙にカラフルに見えた気がする。


もっとも、事物の背景に勝手に「物語」を作り出す力というのは、負の側面もある。

というのは、怖い想像もいっぱい膨らむので、夜になると、たいてい、「おばけがやってくるに違いない」と布団を頭からかぶってブルブルしていたものである。


大人の想像力


このような子ども時代の想像力に比べて、大人になった今は、ある意味、想像力が貧相になっているかもしれない。

例えば、アートを見ても「作者の意図は?」「アートの含意は?」と、解釈ばかりに夢中になってしまいがちだ。

イメージをイメージのまま受け取ったり、そこから自分で物語を展開してみることが少なくなったような気がする。


大人になると、義務や責任、効率に追い回されることが多い。

だから「早く答えを出したい」という性向が強まるのも、その一因なんだろう。


ただ、そのおかげか、自分の不安を煽るような想像に対して、ある程度、耐性が身について、心を平安に保ちやすくはなったように思う。

また、他人の痛みといったことに関しては、経験を積んだ分、より想像しやすくなったように感じる。


子どもの心を持つ大人

「誰もが、一度は子どもだった」

と、サン=テグジュペリが『星の王子さま』で述べている。

それは、一体、何を意味しているのだろうか?

「子どもが純粋で、大人は汚れている」

というようなステレオタイプな見方には、あまり賛成できない。

大人になったからこそ、自分の信じる生き方に純粋な人が多くいることを知っているからだ。


ただ、大人と子どもの想像力の違いの中には、なにか、大切なものが隠れているような気もするのである。

通常の、美術館で見るようなアートと異なり、子どもが楽しめるアートが多い瀬戸内国際芸術祭の会場にいると、大人と子どもたちの、なにか、不思議な力が交錯しているような気になってくる。

それが何なのか、まだ、うまく言葉にできないのだけれど。

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