最近、朝はセミの大合唱で目を覚ますことが多くなった。
カーテン越しに伝わる朝の光に、セミの発するエネルギーが満ちているようで、
「早く起きろー! 今日もいっぱい楽しいことが待っているぞー。みんみんみん」
と急かされている気分になる。
千葉や神奈川にいた時は、こんなシャワーのようなセミの声を浴びたことがなかった。初めて聴いた時は、びっくりした。
昨日は、梅雨明けだったのだろう。
それまでとは打って変わった、すがすがしい青空が広がり、まるで、この世界が入れ替わったように感じられた。
『八日目の蟬』と小豆島
7月6日、小豆島の中山千枚田の周辺で開催された「虫送り」というイベントに参加した。
これは、角田光代原作の映画『八日目の蟬』の影響を受けて、近年復活したお祭りである。
この影響もあり、最近、小説の『八日目の蝉』を読み返していた(ちなみに、NHKのドラマは観たが、映画はまだ観ていない)。
前回読んだのは数年前だったけれど、自分が今、瀬戸内海に来ているためだろう。前回は気づかなかった点が印象に残った。
特に、小豆島の描き方だ。
※
『八日目の蟬』第2部の主人公、恵理菜(薫)は、不倫相手の子どもを身ごもってしまう。
「まだ大学生の自分に育てられるはずがない」
そう思って、彼女は堕胎手術を受けようとする。
しかし、病院でおじいちゃん先生に「子どもが生まれるときは緑がさぞきれいだろう」と言われて、思いとどまる。
この時に、彼女が思い出したのは、子どもの時に過ごした、小豆島の風景だった。
『そのとき、なんだろう、私の目の前が、ぱあっと明るくなって、景色が見えたんだ。海と、空と、雲と、光と、木と、花と、きれいなものぜんぶ入った、広くて大きい景色が見えた(中略)』
『それで私ね、思ったんだよ。私にはこれをおなかにいるだれかに見せる義務があるって。海や木や光や、きれいなものをたくさん。私が見たことのあるものも、ないものも、きれいなものはぜんぶ』
その後、恵理菜は友人とともに、岡山から小豆島に向かおうと、船に乗りに行く。
フェリーターミナルで瀬戸内海を見ながら、彼女の中に、記憶の底に埋もれていた小豆島の景色が次々と蘇ってくる。
『橙の夕日、鏡のような銀の海、丸みを帯びた緑の島、田んぼの緑に咲く真っ赤な花、風に揺れる白い葉、醤油の甘いなつかしいにおい、友だちと競争して遊んだしし垣の崩れかけた塀、望んで手にいれたわけではない色とにおいが、疎ましくて記憶の底に押し込んだ光景が、土砂降りの雨みたいに私を浸す。薫。私を呼ぶ声が聞こえる。薫、だいじょうぶよ、こわくない』
『新幹線のなかで感じた恐怖が、今、自分のなかにこれっぽっちも残っていないことに私は気づく。だいじょうぶ、だいじょうぶと、何か大きな手のひらが、背中をさすってくれているように感じた』
(中公文庫版、P354〜357)
絶望から希望へ。
希望というと単純すぎるけれど、生きようとする衝動みたいなものと言ったほうがいいだろうか。
瀬戸内の太陽と海の力を受けて、恵理菜が、闇から光の世界に歩み出ていく描写が、深く心に残った。
子どもに見せたい風景
以前、東京に暮らしている北海道出身の女性と話した時、こんなことを言っていた。「地元は好きじゃないし、別に帰りたいとも思わない。冬は寒くてたまんないしね。でも、全てを白く染める静かな雪の景色を見られないのが、ときどき、とても寂しくなる」
「好き」「嫌い」のような単純な言葉では言い表せない、もっと心の奥に深く沈み込むような、自分にとっての特別な場所や風景。
これは別に、田舎だけの話ではないと思う。
最近公開された映画『天気の子』の監督・新海誠さんの場合、特に新宿の景観がそういうところなのではないかという気がする。
(彼が『君の名は。』や『言の葉の庭』で描く東京や新宿のシーンは本当に美しくて、そのために僕は東京が嫌いになれない)
※
(ビジネスしやすい環境か、仕事があるか、子育て支援制度が整っているか、といった面も、けっしてバカにできない。というか、だいたいの人は、そちらを基準に住む場所を選ぶと思う)
ただ、「子どもに見せてあげたい風景」や「落ち込んだ時に行ける場所」、「とっておきの夕日が見れる、秘密の場所」。
そんな場所があることは、「人生の豊かさ」といった側面につながっているように思うのである。
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