【ヨガ男子の香川日記】「1人でいる」という感覚

2019年7月15日月曜日

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後述する妙見宮の岩穴。雨のときの島の写真がないので、こちらだけ載せます

「自分は1人なんだ」という感覚。

それが、「孤独」といったネガティブなニュアンスではなく、むしろゆるみとか、深いリラックスを伴うことがある。

そんな感覚を久しぶりに味わったのは、一昨日のことだった。


その日、瀬戸内国際芸術祭の取材とアート制作の手伝いを兼ねて、島に行っていた。

着いたのは昼前だったので、まだ、あまり人はいなかった。外は雨が降っていて、中学校の旧校舎であるアトリエは静かだった。

僕は、掃除をすることになった。ホウキで床をはき、ゴミの仕分けをするという作業だ。

その場所には、しばらくの間、誰も来なかった。ただ1人で、もくもくと働いていた。

床を丁寧にはいて、ゴミを集めると、金属ゴミやプラスチックゴミの仕分けする。ただただ、その繰り返し。

すると、だんだん、自分の頭の中でずっと鳴っていた音が止むような、心の静けさが訪れた。


「何かをする」という感覚

仕事が忙しい時期だと、たとえ物理的に1人でいても、「1人である」と感じることはあまりない。

そういうときは、1人でいるときも、「何かをする」ことに追われているからだ。そして、その「何かをする」ことの先には、他者がいる。

だから、頭の中では、無意識のうちに、他者のことを思い浮かべている。そして、他人が関わっていることに特有の、ある種の緊張感を抱いている。


でも、床をほうきで掃除した時、それが緩むのを感じた。

なんでだろう? と考えるに、おそらく、この時の床掃除が、大して責任のある作業じゃなかったからだろう。

まったくなにもやることがない、という状態も、人間には耐え難い。「あまり責任がないけど、何かやることがある」という状態が、意外と、人間には一番リラックスしやすいのかもしれない。


仕事のことを考えていて、うまく寝れなくなるのは、関東にいたときも、香川に来た後も変わらない。

でも、この日は、夜、疲れがどっと出て、早めに布団に入った。翌朝も、いつもより遅い時間まで寝ていることができた。


人里離れた岩の中での「1人」

妙見宮から見える瀬戸内海と街の風景

そのほかにも、「1人である」という感覚を、最近、深く味わった。

今、自分が住んでいる場所の近くに「妙見宮」というパワースポットがある。

ここは普段、あまり人が立ち寄らないような静かな神社だが、ここの御神体である岩の中に、「開運の洞穴」と呼ばれる穴がある。

ここに入ってみた時のことだ。



人1人、ようやくくぐり抜けられるくらいの広さで、中に入って少し進むと、普段は経験することのないような暗闇となる。

岩に挟まれながら、しばらく進むと泥だらけになった。しかも中がカーブしていて、だんだん、自分が正しい道を進んでいるのかどうかが分からなくなっている。

さらに、この山奥にいるのは、自分1人だけである。

「もしここで事故があって死んだとしても、誰からも見つけてもらえないかもな」

そう気付いた時、「自分というのは、本質的に1人なんだ」と感じた。ただ、それも「孤独感」といった湿っぽい感触ではなく、もっと無機質な感覚だった。

そして、この時も、「仕事をどうしよう」とか、プライベートでの「あのひととの関係をどうしよう」とか、脳の中で飛び交っていたそういった言葉が、遠ざかっていくのを感じたのだった。

そして、この岩穴を出た後、少し世界が違って見えた。


1人でいることと、誰かとともにいること

「人間は1人である」
「人間は他者とともにある存在である」

そのどちらも真実である。というより、その両方がうまくバランスを取れていないと、肉体と、それに紐づく心を持っている人間というのは、うまく生きていけないのだろう。

でも、引きこもりの人が他人に会うのを恐れたり、仕事に追われている人が1人になる時間を持てなかったり。

そのバランスを取るのは、難しいことも多い。

自分もそうなので、自戒を込めて、所感をまとめてみました。

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