アリの大行進

2019年10月22日火曜日

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1人暮らしのお友達

香川に引っ越して約半年。男1人のアパート生活で、一番親しくなったのは、ヤツらかもしれない。

こっちの断りもなく部屋に忍びこんできては、布団の影をシュシュっと動き回ったり、本棚の陰をチョロチョロはい回ったり。

一方は、8本足で、やたらスタートダッシュに強い御仁。

もう一方は、6本足で、ひたすら歩き続けるせっかちさん。


そう、クモとアリである。

秋が深まってきた今は、だいぶ減ってきたが、夏の暑い時は、よく家で追いかけっこをしていた。

(こちらの生命に害のない生き物は、できれば殺したくないので、なるべく捕まえて外に出すようにしている。まあ、シロアリみたいなヤツは駆除せざるを得ないだろうけど)

アリと生命力

今回の瀬戸内国際芸術祭で、あるインド人アーティストが制作している作品がある。

(僕も制作のお手伝いなどで、親しくかかわらせてもらった)

そこには、行進するアリが、曼荼羅のように描かれている。

彼の出身地では、アリは聖性を持つ生き物として考えられているらしい。

巣をつくり、集団生活を営むアリたちは「社会をつくる」ことを体現する存在だからだ。



アリは、日本では、「上司の指示に従うだけの、意志のない社畜」のようなイメージで捉えられがちかもしれない。

ただ、自分は、アリを見るのは嫌いではない。


彼らは、自らの遺伝子に組み込まれたプログラムに従って動いているだけなのかもしれない。

でも、夏の日差しの下、キビキビ動き回り、元気よくエサを探す姿を見ていると、

「与えられた命を精一杯、生きようしようとしているんだなあ」

と、ひしひしくるのだ。


人間らしく生きるか、生き物として生きるか

「ほかの生き物にできなくて、人間だけにできることって、なんだと思いますか?」

数年前、東京の飲み屋で、農業を営む若い女性と話した。彼女はいたずらっぽく、そんな質問を投げかけてきた。


しばらく自分が的外れな回答をした後、しびれを切らした彼女は、

「正解は、農業です。つまり土地を耕して、自ら食べ物をつくるという行為」

と述べた。

厳密に言えば、アリの1種「ハキリアリ」も巣でキノコを栽培しているので、農業は人間の専売特許ではない。

ただ、そんなことを指摘するのも野暮だと思うくらい、彼女はキラキラした目をしていた。



「生物」としての命を全うするか。

「人間らしい」生き方にこだわるか。

究極的には、どちらも尊い生き方だと思う。

どちらも、内側から強いエネルギーを引き出し、人生の充実感を与えてくれる力を持っていると思うからだ。


もっとも、文明社会で生きることには、本質的に、ある種の虚しさがつきまとう。

そうした際、よりシンプルに生きる他の生き物の世界は、多くの示唆に満ちているように感じる。

(もちろん、生き物はすべて生き方が異なるので、どれか1つの生き物を取り挙げて「生き物として正しい生き方」などと言うことはできないのだが)

アリになった自分を想像してみる

『範馬刃牙』という格闘マンガに、主人公がいろんな動物になるのを想像しながら、イメージトレーニングをするシーンが出てくる。

それに倣って、自分も、アリになった様を想像してみた。


高さが1センチにも満たないアリだと、世界は、人間とはまるで異なって見えるだろう。

彼らからすると、人間の家は、「大魔王」が住む根城で、本棚やたんすは、聳え立つ断崖絶壁かもしれない。

網戸をかいくぐって家に侵入し、エサを目指して突進! 巨大な山を越え、谷を越え……、時にはガリバーのような巨大な怪物、人間と激闘する。

彼らの人生は、冒険に満ちてそうだ。

働きアリは、自分の子孫を残さない。

だけど、力に満ちて行進をするアリの勇者たちには、彼らなりの生きる誇りがあるのかもしれない。


まあ、でも、ケガをしたりしたら、容赦なく取り残されるんだろうなあ。福祉といった概念はないだろうから、けっこう大変かもしれない。

そんなことも、思ったりした。






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