脳の疲労
先週末は、習慣である週1回のブログ更新ができなかった。やろうと思って途中まで書いたのだけど、仕上げることができなかった。
体は動くけど、とにかく頭が疲れていて「これ以上がんばったらマズイな」という状態だったのだ。
物事を考える力というのは、「脳の筋肉」みたいなものだと思う。筋肉なので、使い続けていると当然疲労する。
で、自分は、この「脳の筋肉」の量がもともと少ないのかもしれない。10代終わり頃から頭痛癖があるし、今も、少しがんばりすぎると、すぐに頭痛が起こる。
少年マンガなどでは、気合と根性で限界を突破する人物がよく登場する(少し古いネタでは『聖闘士星矢』みたいなヤツ)。
実際、「熱い思いがあれば、なんだってできる!」というタイプの人はいるのかもしれない。
ただ、自分のように体があまり強くない場合、どんな熱い思いがあっても、頑張りすぎると、結局は脳溢血とかになってオシマイ、というになるんだろうなあ、と思う。
仕事も山積みなので、焦るのだけど、どうしようもない。
弱さの持つ意味
頭痛癖が始まったのは大学生の時だったが、その頃、よく読んでいた哲学者がいる。フランスのユダヤ人哲学者、エマニュエル・レヴィナス。思想家の内田樹氏がよく引用する人なので、彼の著作で知っている人もいるだろう。
レヴィナスは、第二次世界大戦の時代を生き、多くの親族をナチス・ドイツに殺された。
そこから、「エゴイズムの塊である人間が、殺し合わずに生きのびることができるとすれば、それはなぜなのか」を探ることが、思索の大きなテーマとなった(と自分は解釈している)。
この哲学者の語る言葉は難解だが、詰まるところ、このようなことを言いたかったのではないかと思う。
「弱さこそ、エゴイズムの塊である人間が他者に開かれる契機になる」
「そして他者とのつながりこそ、人生に意味をもたらす」
この人の著作に触れるようになって以来、自分は「弱さの意味」について考えるようになった。
弱さが与えてくれたもの
「生産的でない人間は生きる資格がない」。そんなマッチョイズムの強迫観念を、自分は子どもの頃から強く持っている。
だから、もし自分に頭痛癖がなければ、
「きれいな海を観ながら静かな時間を過ごす」
といったことの価値に気づくことはなかっただろう。
今こうして、瀬戸内で美しい景観を見ることができること。
それは、弱さが与えてくれたものではないかと思う。
人間が生きる上で、強さも弱さも、どちらも必要だと思う。
だけど、今の世の中では、弱さは軽視されがちだ。
だから、自戒を込めて、書き記しておきたい。
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