弱さが教えてくれること

2019年7月23日火曜日

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脳の疲労

先週末は、習慣である週1回のブログ更新ができなかった。

やろうと思って途中まで書いたのだけど、仕上げることができなかった。

体は動くけど、とにかく頭が疲れていて「これ以上がんばったらマズイな」という状態だったのだ。


物事を考える力というのは、「脳の筋肉」みたいなものだと思う。筋肉なので、使い続けていると当然疲労する。

で、自分は、この「脳の筋肉」の量がもともと少ないのかもしれない。10代終わり頃から頭痛癖があるし、今も、少しがんばりすぎると、すぐに頭痛が起こる。

少年マンガなどでは、気合と根性で限界を突破する人物がよく登場する(少し古いネタでは『聖闘士星矢』みたいなヤツ)。

実際、「熱い思いがあれば、なんだってできる!」というタイプの人はいるのかもしれない。

ただ、自分のように体があまり強くない場合、どんな熱い思いがあっても、頑張りすぎると、結局は脳溢血とかになってオシマイ、というになるんだろうなあ、と思う。

仕事も山積みなので、焦るのだけど、どうしようもない。

弱さの持つ意味

頭痛癖が始まったのは大学生の時だったが、その頃、よく読んでいた哲学者がいる。

フランスのユダヤ人哲学者、エマニュエル・レヴィナス。思想家の内田樹氏がよく引用する人なので、彼の著作で知っている人もいるだろう。

レヴィナスは、第二次世界大戦の時代を生き、多くの親族をナチス・ドイツに殺された。

そこから、「エゴイズムの塊である人間が、殺し合わずに生きのびることができるとすれば、それはなぜなのか」を探ることが、思索の大きなテーマとなった(と自分は解釈している)。

この哲学者の語る言葉は難解だが、詰まるところ、このようなことを言いたかったのではないかと思う。

「弱さこそ、エゴイズムの塊である人間が他者に開かれる契機になる」

「そして他者とのつながりこそ、人生に意味をもたらす」

この人の著作に触れるようになって以来、自分は「弱さの意味」について考えるようになった。

弱さが与えてくれたもの

「生産的でない人間は生きる資格がない」。

そんなマッチョイズムの強迫観念を、自分は子どもの頃から強く持っている。


だから、もし自分に頭痛癖がなければ、

「きれいな海を観ながら静かな時間を過ごす」

といったことの価値に気づくことはなかっただろう。

今こうして、瀬戸内で美しい景観を見ることができること。

それは、弱さが与えてくれたものではないかと思う。



人間が生きる上で、強さも弱さも、どちらも必要だと思う。

だけど、今の世の中では、弱さは軽視されがちだ。

だから、自戒を込めて、書き記しておきたい。

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