インド・アルナチャラ山の山頂近くから |
「日本はとてもNoisy」
今年のゴールデンウィークは、4月28日〜5月2日にかけて南インドを旅行しました。海外を旅する意味:GWに南インドで考えたこと
今回はその話を書きたいのですが、その前に一つ、別の話を。
インド旅行の直前、瀬戸内国際芸術祭のプレスツアーに参加しました。
(瀬戸芸は4月26日開幕だったので、プレスツアーがその辺りになったのです)
そこでさまざまなアーティストにお会いしたのですが、その中に、ドイツ・ベルギーで活動するサラ・ヴェストファルさんという方がいました。
彼女は男木島で、「Sea Within - See Within」という作品を展示しています。
(日本語タイトルは「うちの海 うちの見」ですが、英語の方が意図がわかりやすいので、英語で書きました)
これは、空き家内に暗い空間をつくり、床面に張られた水に光を反射させる。それによって、瀬戸内の海の揺れを再現するというものでした。
中にはベンチが設けられ、観客はゆったりしながら、波の揺れに心を浸す。少しリラクゼーションサロンのような雰囲気もありました。
彼女はヨガをやっていたので、ヨガ仲間同士、話が弾んだのですが、
「あなたの作品は、瞑想するための場所のようですね。なんでこの作品を作ろうと思ったんですか?」
と質問したところ、
「日本を見て、Noisyな場所がとても多いと感じました。だから、人々が、自分の心を見つめられる空間をつくる必要があると思ったんです」
と答えてくれました。
(Noisyというのが、東京のような都会だけの話なのか、瀬戸内地域も含めてなのかは、聞きそびれましたが)
悟りを得られないインドの聖地訪問
そのインタビューの3日後、インドに来ました。
今回は、ティルバンナマライという町に行きました。南インドのハブ都市であるチェンナイから、バスで4時間ほど離れた町です。
(『地球の歩き方』に出てないくらい、日本人は少ない)
ここは、「アルナチャラ山」という山をシバ神の化身、つまり御神体として崇めている場所です。
知人が、ブログで言及していたことで知り、「山を御神体とするなんて、日本に似てるな」と感じたので、行ってみることにしました。
(「その土地らしさ・歴史」みたいなものを感じるには、個人的には、聖地的な場所はけっこう良いと思っています)
山の入り口には、ヒンドゥー教のお寺が設けられています。
インド3日目の早朝、そこで朝の勤行(お経を唱えたりする儀式)に参加させてもらった後、山を登りました。
ヒンドゥーの聖地の規則にのっとり裸足で歩いたが、午後はすさまじい熱さになり、足裏が低温やけどしたような状態に。結局、最後はサンダルをはいた。 |
この山は、かつて「ラマナ・マハルシ」という聖人が住んでいたことで有名です。
ラマナ・マハルシは、生涯のほとんどをふんどし一つで暮らしながら、ずっとこの場で瞑想にふけっていたということです。
自分がアルナチャラ山を登ったときは、近くにいたお坊さんに案内してもらい、ラマナ・マハルシが瞑想をしていた洞窟で1時間30分ほど、瞑想をさせてもらいました。
中はほぼ真っ暗で、弱めのサウナのような状態で蒸していました。瞑想をしていると、汗がとめどなく流れて行きました。
瞑想を終えて外に出ると、少しすっきりした感じがありました。
※
ただ、正直なところ、それ以外に印象に残ったことは、ほとんどありませんでした。
ラマナ・マハルシという人物について勉強不足もあるのでしょうが、瞑想していても、自分の内側に湧き上がってくる感激などはありませんでした。
この場所がそういう場所じゃなかったのか、あるいは自分の感受性が足りないのか。
どちらかは分かりませんが、夏目漱石の小説『門』に出てくる主人公のように、肩透かしを食らったような気分のまま、すごすごと山を降りてきました。
非日常空間で得た、何もしない時間
ただ、その翌日、チェンナイに戻るバスに揺られながら、ふと気づきました。「自分はずっと、「何もしない」時間を過ごすことがなかったな」と。
香川に引っ越す前からですが、脳は変なスイッチが入ったみたいな興奮状態が続いており、毎晩、あまり寝ることができてませんでした。
焦りも、楽しい興奮もないまぜになっていたのですが、要は躁(そう)状態になっていたということです。
ところが、インドに来たら、アルナチャラ山の瞑想もそうですが、トランジットで飛行機が1日遅れたり、深夜の空港に着いてメトロが動き出すまで7時間待ったりと、空白の時間がたくさんありました。
そのおかげか、インドから帰ってきた後、自分の体の重しとなっている、ある種の悪い「流れ」を断つことができたような感覚がありました。
※
瀬戸芸であったサラさんの「Sea Within - See Within」も、瀬戸内海の揺れを見ながら瞑想したければ、わざわざアートで見なくても、適当な場所でやればいいだけのことです。
アルナチャラ山の瞑想も、家で瞑想をすれば事足りるかもしれません。
(もちろん、瞑想をしやすいように色々な環境を整えてくれているので、そういう意味ではやりやすいのですが)
ただ、瀬戸芸や、インドといった非日常空間に行かなければ、日常でできることに気づかなかったな、とも思いました。
非日常的な時間・場所で大切なのは、特殊な経験もさることながら、安心して止まったり、空白になったりできる時間ではないか。
そんなことを思いました。
寝る前にスマホの電源を切る
そんなことを思いながら香川の家に帰ってきた後、ひさびさに風邪を引きました。幸い、マラリヤやデング熱は避けられたようですが、微熱とせき、鼻水が続いて、今日(日曜日)も一日、寝ている破目になりました。
ただ、これは逆に、躁状態が過ぎて、身体が「たっぷり寝る」ことを許しているような状態になったということです。
多分、今の自分にとって、風邪という理由の下に体力を回復させることは、身体が求めていたことだったんだろう、と思います。
※
空白の時間をつくるために、少し生活を変えたいなと思いました。
小さいことですが、インドから帰ってきたその日、電化製品の店でアラームクロックを買いました。
自分はここ数年来、スマホのアラームをかけてから寝るようにしていました。
これは、一義的には、アラームクロックを新たに買うのがもったいない、と思ってのことです。
ただ、スマホを切ってしまうと、「他人とつながっていないような気がして、寂しい」という気持ちの裏返しだった側面もあるのだと思います。
そんな気持ちがあるから、夜中に知人からの連絡や、Facebookでの反応が気になり、起きてしまうこともしばしばありました。
あと、夜中に布団に入ってから、何かアイデアを思いつくと、起きてメモを取ったりしていたのですが、これもやめにしようと思いました。
「寝てるうちに忘れるアイデアは、しょせん、その程度のもの」
そう思うことにしました。
日常の中に空白の時間を増やしてみること。
まあ、うまくいかない事が出てくれば、また変えるかもしれませんが、しばらく続けて見ようと思います。
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