震災の被災地コミュニティーの再生を描く映画『願いと揺らぎ』

2018年3月17日土曜日

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自動車道の近くに連なった杉の木々の上に、紫色の藤の花が見えた。

新緑は燃えるような生き生きとした色をしていた。

5月の東北とは思えないほどの暑い日射しを受けて、海はあざやかに輝いていた。


2017年5月下旬、縁があって、宮城県の南三陸町を訪れた。

南三陸町は、2011年3月11日に発生した東日本大震災において、600人を超える死者を出すなど、特に大きな津波被害を受けた地域だ。

1泊2日の滞在中、南三陸街の復興のシンボルとなっている「さんさん商店街」や、周辺の津波の被害地を回った。震災復興と、地域活性化に向けて取り組む若い方々にも多くお会いした。

「この地で、何か自分にできることはあるか」

そう考えつつ、何も思いつかないまま、帰路についた。それから1年近くが過ぎた今も、結局、何もできていない。

震災から7年となる3月11日、ふと思い立って、南三陸に関する映画を見に行った。

それは、そんな中途半端な自分の気持ちに、何らかの答えが見つけられないか、と思ってのことだった。

映画『願いと揺らぎ』


この日、東京の東中野にある映画館「ポレポレ東中野」で上映されたのは、『願いと揺らぎ』だ。

南三陸町の中の集落の一つ、波伝谷(はでんや)の住民の方々が、震災後の混乱の中で、地域の伝統行事である「オススサマ」(お獅子様)を復活させる。その過程を描いたドキュメンタリーだ。

監督の我妻和樹さんは、もともと東北学院大学で民俗学を専攻されていた。震災前の2005年から波伝谷に通って、漁村のコミュニティーの在り方を調べてきたという。

特に2008〜11年に彼が撮りためた映像に関しては、震災後の2013年、映画『波伝谷に生きる人びと』として上梓されている。今回の『願いと揺らぎ』は、その続編に当たる。

波伝谷は、震災によって約80軒あった集落は壊滅し、16人の方が犠牲となったという。

多くの人が仮設住宅に暮らすことになり、生業の漁業に関しても、やり方を大きく変えざるを得なくなった。

そうした多くのストレスを人々が抱えている中なのだ。獅子舞を復活させるという話が出たのは。

当然、このような状況下では、さまざまな問題が発生する。

例えば、獅子舞のときに踊り手が被る布をどのように調達するかを巡って、意見の対立が起こる。

住民組織(契約講という)の代表者たちは、「皆の負担があまりに大変だから」と、寄付に頼って集める方向で話を進める。

これに対し、ある若者が「自分たちで作りあげてこそ意味があるのでは」と、自分たちで多少なりともお金を出し合うことを主張する。

しかし、若者グループ、どのように行動すればいいか分からない。しかも、日々の仕事も忙しいので、時間もない。

(監督の我妻さんは、契約講の代表の方の意向を受け、最初はインターネットで寄附を募る。

しかし、寄附に反発する若者グループの意向を受け、寄附はやめにし、支援者へお詫びに埼玉県にまで行くといった一幕も映画内では描かれている)

そんな様々なわだかまりを抱えたまま、12年の「オススサマ」は実施される。

映画のラストは、それから5年(もしかしたら4年だっただったかもしれない)たった後に、監督が、当時の寄附に反対していた若者グループの人に会いに行く、というシーンが描かれる。

根なし草の自分


「なんでこんなに大変な思いをして、伝統行事を保とうとするんだろう」

映画を見ながら、疑問がついて離れなかった。

「たとえ皆が離れ離れに暮らしていても、『オススサマ』のために帰ってこようと思う。『オススサマ』は、皆がこの土地に帰ってくるためのよすがだ」

メモを取りそびれたので、正確な表現は忘れてしまったが、ある住民の方は、そのように語っている。

それと同時に、見ていて、こうした行事は「自分を確かめる場所」でもあるのではないか
と思った。

毎年、同じ時期に、関係者で集まって行事を行う。「去年はああだったけれど、今年はこうだった」と、時間の経過を感じることで、今の自分の立ち位置を確認できる。

伝統行事は、そうした、人間のアイデンティティーに深く関わっている気がする。


僕は、東京近くにある千葉県のベッドタウンで育ったこともあり、地域の伝統といったものからは遠い生活をしてきた。

そのため、「自分は根なし草だ」という感覚が、ずっと拭えないし、いろんなことに深く関わることができないのは、自分の「根なし草」性のためなのだろうと思っている。

(南三陸との関わり方が分からないのも、結局、自分の「根なし草」性に起因するように思う)

なんとか今後、自分の根を見つけたいと思っているのだが、最後に、「根を持つこと」について今の段階で考えたことを3つ、記しておく。

1,土地に移住し、その時の人になる

写真家の星野道夫さんの著書「イニュニック(生命)」の中に、「土地のものを食べることによって、その土地の者となっていく」という下りが出てくる。

彼は日本出身の日本人だが、アラスカに移住し、その土地の人となった。

その土地に住み、その土地の人々と親交し、その土地のものを食べ続けること。そうした中で、「土地の人」になることができるのかもしれない。

2,土地以外に、自分の根を見出す

根の持ち方は、土地だけに寄らなくてもよいと思う。

『コーランには本当は何が書かれていたのか』という本に登場するあるイスラム教指導者の方は、インドの地方出身だが、英国でずっと研究活動をしている。

「故郷を離れて暮らしていて、寂しくないですか?」という質問に対し、彼は、「天国こそ、私の故郷ですから」と答える一節がある。「これが一神教の考えなのか」と、この一節を読んでつくづく考えさせられた。

(僕がこのブログで紹介しているマインドフルネス瞑想も、「今ここにある自分の体」が自分の故郷だという考えを取っている)

これは宗教の話だけど、例えば、「●●のプロフェッショナルであること」なども、これに当てはまる。


3,「根なし草であること」が、自分の根だと思う

パレスチナ出身の思想家、エドワード・サイードの著書『知識人とは何か』の中に、「知識人とは、アウトサイダーだ」という下りが出てくる。

(先日、ある人がFacebookでこの本に言及していたのを見て、大学時代に読んだことを最近思い出し、ここに紹介させてもらっています)

どこかに根を張って安定を求めるのではなく、どこにも居付けない居心地の悪さの中で生き続けること。

そうした居心地の悪さこそが、社会をよい方向に導くための批判的思考を養う土壌となるといったことが、この本には書かれていたように記憶している。


このあたりは、自分の考えがまったくまとまっていないのだが、今の段階での自分の感想として記しておきたい。









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