不信心者の神社もうで

2017年11月9日木曜日

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最近、仕事を通して埼玉県の秩父に縁ができた。


それもあり、11月はじめの3連休、日帰りで奥秩父三峰山にある三峰神社に行った。


三峰神社は、「関東最大のパワースポット」と呼ばれている。

最近は、フィギュアスケートの浅田真央選手がここの御守を持っていることでも話題になったという。
      
               
東京からの場合、まず池袋から1時間半かけて、西武秩父駅に行く。 

さらにそこからバスで(通常時で)75分、山の中を進んでいく。



僕が行った時は連休中だったので、渋滞がひどかった。

1時間以上バスが遅れ、車酔いにも苦しめられた。


(結局、最後の2キロくらいは、バスを降りて歩くことになった)


一日かけて行ったが、神社に滞在できたのは、結局、1時間ちょっとだった。


それでも行けてよかったと思う。



木々から生気をもらう



僕は、仏教の、特に禅宗の考え方に、自分の倫理観や生き方の影響を受けている。

道元は「仏法を学ぶとは自己を学ぶこと」と言っているが、禅宗の修行は、自分の探求が中心にある。


そのため、自分の外部に、神様(という言葉で一般的にイメージされるような)絶対者の存在を、あまり意識しない。


(少なくとも、僕はそう解釈している)



僕自身は、「神様が存在するか」と問われたら、限定付きで「いる可能性は十分あると思う」と答えることにしている。


ただ、自分の生き方や、倫理的な観点から、神様に帰依する信仰心は持っていない。


そのため、神社に立ち寄った際、「神様にご挨拶をする」ということはしても、

「●●に合格しますように」
「●●が叶いますように」
といった、物理的な欲求を満たすためのお願いごとはしないことにしている。

(ただ、神様に対して、例えば、
「●●を頑張りたいと思うので、どうか見守っていてください」
「困難な状況に立ち向かう勇気をください」
などと祈ることは、意味のあることだと思っている



そんな人間ではあるが、神社という空間は、実はお寺よりも好きだ。


なぜなら、多くの神社は、美しい木々に囲まれている。
その中にいると、生命のエネルギーをもらえるように感じるからだ。

人間は、呼吸などを通して外の世界とつながっている。

それで、外にある存在と、エネルギーを交換し合うような関係にあるのだと思う。

人間どうしでも、エネルギッシュな人のそばにいると、
「あの人と一緒にいると、なんか元気もらえるよね」
と感じることが多いと思う。

神社の場合、木々や、そこに訪れる様々な生命と、そうした関係が成り立つのだと思う。


三峰神社の創設は1900年前に遡るという。
境内には、樹齢800年を超える立派な杉の木が多く立っている。

その木々が放つ生気を吸っていると、頭と心がシンと静まって、ただただ、今生きている自分の命に深く向き合えるような気がした。



帰りのバスも満員で、1時間半近く立つことになり、相変わらず車酔いに苦しめられたけれど、心はなんだか安らかだった。




神社と権力闘争の歴史



そんなわけで、三峰神社に行けてよかったな、と思っているのだが、実は神社全般に対して、ある種の困惑も抱いている。

というのは、多くの神社の創設に関わる話を聞くと、当時の権力者による権力闘争が関わっている場合が多いように思われるからだ。


(戦争での勝利を祈願する、自らの権威を誇示する、など)


こうした話を聞いていて、正直なところ、どう共感していいのか分からない。


第二次世界大戦中は、「国家神道」として、神社が国民を戦争に駆り立てる具に使われていたことを考えても、ますます困惑が募る。




神社には、地域の人々の小さな喜びや悲しみを受け止める場所になってきた、という側面もあると思う。

歴史に不勉強な、神社好きの一観光客としては、そうした人々の物語を、もっと紡いでくれないものか、という気がしてしまう。

そうしてこそ、神社というものが現代において持つ本当の意味が、見えてくる気がするのだ。





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