頭痛が教えてくれたこと:哲学者になれなかった自分

2017年11月11日土曜日

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11月はじめの3連休のうちの2日間は、頭痛で臥せっていた。


仕事の忙しい期間が続いた後の、疲れが出たのだ。


珍しいことではない。頭痛は自分にとって、ある意味「旧友(旧敵)」のような存在だ。


子どもの時から、疲れると、すぐに微熱が出たり、頭が重くなったりした。


だが、この頭痛は、大学生の時にかなりひどくなり、それ以降の自分の人生観などに大きな影響を及ぼした。


頭痛で臥せっている間、ふと、そんな過去のことを思い出した。

哲学者への憧れ


僕は大学生の時、哲学者になりたかった。


大学の哲学研究者、という意味ではない。


生活資を稼ぐための仕事はなんでもいい。


だが、世界と宇宙の真理を深く知り尽くし、あらゆる権力や常識から自由に行動できる人間。


それが自分の考える哲学者だ。

そのきっかけは、大学2年生の時に受講した、倫理学の授業だった。


授業を担当していたのは、(女性なので歳を訊ねていないけど、かなり若い感じの)政治哲学の研究者の人だ。


はじめての授業の時、彼女にこんなことを言われ、衝撃を受けた。


「教員が講壇に立って話し、学生たちが席に座って聞く。
こういった権力関係は、今の社会がそう決めているだけで、絶対的なものではない。
あなたたちは、やろうと思えば、私なんて気にしないで、ベランダに出て議論をすることもできる」


正確なニュアンスは覚えていないが、だいたい、こんなことを言われたと思う。

そしてこの後で、ドイツの哲学者マルティン・ハイデガーの「被投的企投的存在」という言葉を教えてもらった。


哲学用語なので、いろんな解釈があると思うが、自分はこの言葉をこんな風に理解した。

「世の中の常識とされているものは、社会が変われば、まったく変わる。
人間は、生まれると、ある環境の中に投げ込まれて(被投)、そこで常識とされている観点からしか物事を見れなくなる。
でも、人間は、その世界に疑問を抱いて、自らの意志で、違う生き方を取ったり、世界に働きかけることができる(企投的存在)。」

当時、学校教育のあり方も、アフガン・イラク戦争を容認してしまうような社会のあり方も、そうした戦争を生み出す資本主義のあり方も、自分にとっては疑問だらけだった。


(そして、周りの人たちの、そうした社会に疑問を持っていない様子にも、苛立っていた)


そして何よりも、承認欲求が満たされず劣等感まみれで、この先どうして生きていけばいいか分からない自分自身の生き方に関しても、悩みだらけだった。


世間の常識を徹底的に疑うところから、自分の生き方を見つめ直す学問。


哲学は、自分に新たな窓を開いてくれているように感じた。

この先生の影響で、その後、デカルトの『省察』や、ニーチェの『権力への意志』、サルトルの『実存主義とは何か』、またジャック・デリダの入門書などを読むようになった。


「そもそも世界は存在しているのか」
「『存在している』とは、何を意味しているのか」
「自分とは何か」
「他者とは何か」
「正しさとは、どのようにつくられるのか」
「よい社会とは何か」


など、物事を徹底的に考えようという姿勢は、一種のヒーローのように映った。

脳の中の重たい塊


ただ、夢はほどなくして挫折した。


大学3年生だったある日、ハイデガーの『存在と時間』を読み続けていた時に、頭が鉛のように重く、耐え難く痛くなった。


僕は子どもの時から、疲れるとすぐ頭痛になる傾向があったが、それまではが少し休めば治っていた。


だが、この時は、休んでもずっと頭痛が残り続けた。


多分、それまで脳に蓄積されていた疲労が、ある限界を超えたということなのだと思う。


医者に行き、脳のMRI検査を取ってもらっても、異常は見つからなかったが、頭痛は消えなかった。


そして、再び哲学書を読み始めると、すぐに脳の中に、重たい塊のようなものが広がっていって、耐え難く苦しく、もはや長時間読み続けることはできなくなった。


それ以降、20代の終わりまで、ずっと慢性的な頭痛に苦しめられることになった。

頭痛の悪化


社会人になった後、仕事の疲労もあって、頭痛はどんどんひどくなった。


僕はもともと、他人に対して恐怖を感じやすい性格だ。


頭痛で物事を正しく判断する自信がなくなり、仕事でミスをして上司に怒られる。

そうなると、ますます自信をなくし、仕事をするのが怖くなり、失敗を繰り返す。

そんな悪循環に陥った。


(現代のビジネス社会というのは、基本的に脳化社会だ。仕事の出来不出来は、思考力によって決まる。
そういう中で、頭痛持ちであるのは、致命的な欠陥だと思う)

頭痛も、その時々で脳のどの部位が痛むかが異なる。

そのため、当時の日記では、


「脳が両側からまんのうで締め付けられるような痛み」
「脳のてっぺんから、杭を打ち込まれたような痛み」


など、頭痛に関する分析をしょっちゅうやっていた。

当時、同じく頭痛持ちだったフランスの哲学者、シモーヌ・ヴェイユの『重力と恩寵』をよく読んでいたが、彼女の


「わたしは、頭痛の折りふしに、発作がひどくなると、ほかの人のひたいのちょうど同じ部分をなぐりつけて、痛い目にあわせてやりたいとつよく思ったものだ」
(ちくま学芸文庫、P11)


という一節には、とりわけ共感したものだ。

「自分が知らない世界がある」ことを出発点に


この頭痛が軽減されたのは、20代後半に始めたヨガのおかげだ。


ヨガの呼吸法や、仏教の思考を止める瞑想法により、頭痛になる前に脳を休めることができるようになった。

だが、今でも、少し頭を使う仕事が続いたり、疲れが溜まったりすると、頭痛になるのは変わらない。


多分、今後もハードな哲学書はもう読めないと思う。


複雑な世界の問題を、徹底的に考え抜いて、誰もが納得できる普遍的な真実を見つけることは、もはやできない。


ましてや一流のビジネスマンなどにもなれないと思う。

自分の思考力、頭脳に限界がある。


その現実から出発して、自分は今後、どんな生き方を紡いでいけばいいのか。


今考えているのは、2つのことだ。

一つは、自分の命に深く向き合うこと。


他人にとって正しいか正しくないか、という以前に、自分の命がどんな時に喜ぶのか、どうすれば「自分の命を全うしている」と感じられるのか。


哲学とか思考以前に、自分の感覚的な部分に耳を澄ませることを通して、自分の生き方を見つけようと思っている。

もう一つは、
「この世界には、自分の知らないことがある」
ことを前提として、自分と考えの異なる他者と向き合うこと。


以前、同年代の人と話していた時、ふと「神様がいると思うか」という話題になった。


僕が「いる可能性はあると思う」と答えたところ、
「そんな非科学的なことを言うなんて、バカじゃないの。オカルトだよ、それ」
と批判されたことがある。


僕も、キリスト教やイスラム教などの一神教への信者ではないので、そうした人たちの持つ「唯一の神」といった観念は、うまく理解できない部分がある。


ただ、僕が理解できないこと=存在しない、ではない。


この世界には、僕が知らない事実や、考え方が多くある。


そういう意味で、他人と「どちらが正しいか」を競ったり、論破したりすることを目指すよりも、
「自分も他人も、両方の命が喜ぶような関係性」
を作りたいと思うようになった。

そのような考えの転換によって、自分が他人に対して優しくなれたかどうかは分からない。


ただ、もし、他人の目から見ても、自分が他人と良い関係を築けるようになったのであれば、僥倖だと思う。

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