肉を食べることに関する整理のつかない感情:鶏の屠殺体験(1)

2017年11月30日木曜日

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朝、目が覚めたのは6時前だった。
夜明け前の冷たい空気を吸いながら、朝ごはんもそこそこに電車に乗った。


約2時間半かけて到着した鄙びた駅は、多くの人で賑わっていた。
どうやら、ハイキングに関するイベントが開かれているらしい。


空を見上げると、透明な青色にかすかに雲が流れていた。
晩秋の折、地面は紅い落ち葉で美しく染め上げられていた。



うららかな日だった。
心の中には、きれいな空気を味わえる喜びと、これから体験することへの緊張が入り混じっていた。


地球のしごと大學の講座



11月26日の日曜日、山梨県の都留市で、鶏の屠殺体験をさせてもらった。


これは、「地球のしごと大學」の講座の一環である。


「地球のしごと大學」とは、地方の過疎化や環境問題などを見据えて、次の時代の生き方と仕事のあり方を創ることを目指す学び場。


2013年、ベンチャー企業(と言ってもいいと思う)である株式会社アースカラーによって設立された。


持続可能な衣、食、住のあり方を学ぶ「地球のしごと教養学部」、米と大豆づくりを学ぶ「こめまめ農家養成学部」、林業家を育成する「自伐型林業家養成学部」など、さまざまな講座が設けられている。


僕自身は、2016年に約10ヶ月間、ここで米づくりの勉強をさせてもらった。


地球のしごと大學:


「地球のしごと大學」では、哲学者の内山節さんのような著名人に加え、地方創生やソーシャルファイナンスに携わっている実務家など、多彩な講師が関わっている。



今回の講座を担当してくれた加藤大吾さんも、ユニークな経歴の方だ。


もともと環境関係のお仕事をされていたが、12年前、都留市の山に土地を買って移住。


それから、山を切り開き、家を自分で立て、田畑をつくり、鶏や羊、馬などの家畜を飼って、半自給自足の生活を実践されている。
(さまざまな事情から、現在、羊は飼うのを辞めているが)


今回の鶏の屠殺体験は「命を頂くということ~生態系の一部にヒトを位置づける~」というテーマで実施されたが、まさに「生態系とともに生きる」というテーマに取り組んできた方だ。


(加藤さんの取り組みは、ホームページに詳しく紹介されています。


「屠殺を体験してみたい」という気持ちの裏側


屠殺体験に参加するのは、初めてではない。2年前の2015年にも、同じく地球のしごと大學の講座で参加させてもらった。


また、別に埼玉の猟師の方のイベントで、鹿の解体ワークショップに参加させてもらったこともある。(この時は、すでに死んでいる鹿をさばく体験だったが)


「屠殺を体験してみたい」という思いの後ろには、整理のうまくつかない複数の感情が絡み合っていた。


約30年間の人生を通じて、幾人かの知人の死を経験したことや、東日本大震災を通じて、死を強く意識するようになったこともある。


「他人がやっていないことをやってみたい」という冒険心と、他人がやらないことをやっている自分を自慢したい気持ちもあった。


ただ、それらに加えて、
「他の生命への暴力の上に支えられている自分の命とは何なのか」
を考えるきっかけをほしかった、という点も大きい。



暴力の上に支えられている自分の命。
こうした認識は、小学生くらいの時からあった。


子どもの時、小学校の先生か誰かが
「命を大切にしましょう」という話をしたことがある。

その時、「動物も、命ではないんですか?」と尋ねたところ、
「動物は人間とは違うよ」との答えが返ってきて、困惑してしまった。


(もう本当に小さかった時のことで、うろ覚えのため、実際に交わした言葉は違っていたかもしれない。ただ、この時の違和感は、かなりはっきり覚えている)


それもあってか、スーパーマーケットなどで切り身になっている魚や、鶏や豚、牛を見るたびに、何か矛盾のようなものを感じてしまった。


そして、このなんとも形のつかない感情は、「今日は焼肉だ!」とお祭り気分で他の人と騒ぐ時にも、心の片隅に影を落としていたように思う。


過剰な暴力?現代社会の食肉


食べる、という行為がはらんでいる(食物連鎖、という意味での)原理的な暴力性だけではない。


現在の”豊かな”社会の裏で、過剰な暴力が行われているのではないか、という疑念もある。


昔は肉は高級品だったらしいが、今の日本では、ファミマでファミチキを180円くらいで買ったり、マックでハンバーガーを100円で買えたりする。


肉が安くなった背景には、家畜を大規模に工場で”生産”できるようになったことが大きく影響しているらしい。


電気ショックで感電死させるなど、なるべく苦しみを与えないやり方が取られるなどの配慮はなされているようだ。ただ、非常に狭いスペースに押し込められて、むりやり餌を食べさせられて太らされるようなケースも多いと聞く。

自分自身で直接現場を調査したりはできていないのだが、現在の肉の値段を考えれば、そうした形で大量生産されていることはあり得ることだと思える。


(食肉にされるために肥育される豚の惨めな心境を描いた作品に、宮沢賢治の『フランドン農学校の豚』という童話がある)



もっとも、こうした状況を自覚しながら、僕自身はなかなか安い肉を食べるのがやめられない。


子供のときから肉食が当たり前の食環境で育ったせいだろうか、肉を食べないと貧血を起こしやすくなったりする、という身体の事情もあるし、単純に美味しい、ということもある。


(なので、食肉に携わるお仕事をされている方を批判する資格は、少なくとも今の自分にはないし、ここでそうした方々に対する批判を書こうとしているわけではない)


自分も、巨大な暴力に加担している人間なのだ。


飲み会の席などで、ゲラゲラ笑いながら、唐揚げなどを頬張っていることもよくある。


暴力をふるう加害者であることを辞められない身として、他人事ではなく、自らが暴力を振るう痛みを感じてみたい。それで、多少なりとも、良心の呵責をやわらげたい。


「屠殺を体験してみたい」と思った背景には、そんな利己的な動機もあった。

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