東京で満員電車に揺られながら考えたこと

2019年9月1日日曜日

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新幹線の降り場

今週の後半、仕事で2カ月半ぶりに東京に戻った。

2泊3日の間、電車やメトロに乗って、あちこち移動したのだけど、特に千葉にある実家と会社を行き来する際、久々に満員電車に乗ることになった。

都営浅草線から京成線につながるラインだが、特に30日(金)の朝は、体調の優れない乗客の救護活動のため、電車が遅延し、かなりの混み具合となった。

香川の生活ではほぼ経験することのない、見知らぬ人々との距離の近さ。

雨で湿気が高かったこともあり、圧迫感にちょっとおかしな気分になりながら、思ったことがある。

東京の不便さの代名詞、満員電車だけど…

東京のネガティブな面を挙げる際に、よく言及されるのが通勤ラッシュである。

僕のように地方移住に興味のある人間だと、「都会と地方の比較」が会話のネタになることがしばしばある。そうした際に、

「満員電車のない地方って、いいよね」

と言われることが多い(地方の場合、道路が通勤の車で渋滞することがあるが)。


ただ、東京に住んでいた時のことを思い出すに、

「満員電車がイヤだから」

という理由だけで地方移住する人はほとんどいないような気がする。


「住めば都」というけど、人間、ある程度の不便さがあっても、住み慣れた場所は居心地が良いものだ。

それに、東京の通勤ラッシュは、関係者の努力により、数十年前よりずいぶん改善しているらしい。ほとんどの人にとっては、「慣れることができる」範囲のものじゃないかと思う。

実際、自分も神奈川に住んでいたころ、このくらいの混み方にはけっこう無感覚になっていたなあ、と思うのである。

本当にダメージを受けること

現代アーティストのクリスチャン・ボルタンスキーの「ぼた山」。今回の帰京時に見に行った

でも、人間が本当にダメージを受けるのは、少し違うことかもしれない。そんなことも、今回は感じた。


今回、所用でお茶の水を歩く機会があった。

お茶の水や神保町は、自分にとっては懐かしい街だ。

10~20代のころ、JRお茶の水駅や神保町のカフェに行っては、持ち帰り仕事や勉強、読書をよくしていた。

今回も、そうした作業に使っていたカフェの1つを目にして、懐かしさがこみあげ、少し立ち寄ろうかと思った。

でも、結局、中には入らなかった。

それから三省堂まで行って、横断歩道を行きかう人々を見て、ビルの向こうに広がる空を見上げたのだが、

「あの時、自分はずっと寂しかったんだよなあ」

そう思い出していた。


当時はお金がなかったので、カフェはチェーン店ばかり行っていた。

こういう場所は、店員さんがすぐ変わるので、誰とも仲良くなったためしがない。それにどこも忙しいから、ちょっとしたおしゃべりなどもないものだ。

街を歩いていても、お金を払うこと以外で人とかかわることはない。

「東京にはこれだけ人がいるのに、つながる人はほとんどいないんだなあ」

そんなことにがっかりしながら、1人住まいのアパートに帰ってきた覚えがある。


東京には、にぎやかで、寂しい記憶が多い。そうしたところに、10~20代の自分はダメージを受けていたのかもしれない。

今、30代になって鈍くなってきた心で、そう思うのである。

妊婦さんの笑顔

話は、先ほどの満員電車に戻る。

実はこの時、始発駅で乗ったこともあり、はじめは座っていたのだが、途中、妊婦さんを見かけて席を譲った。

(これは何となくの自分ルールなのだが、妊婦と杖をついていたりする人を見かけたら、なるべく席を譲るようにしている)

それから、スマホで英語の勉強を続けていたのだが、ある駅に止まったときのことだ。

肩をつんつん、と叩かれ、「さっきはありがとうございました」と声をかけられた。

スマホから目を上げたら、先ほどの妊婦さんが、笑顔で立っていた。その笑顔に、はっとさせられた。

彼女はすぐに降りて行ったが、自分の心に、なにか潤いが戻ったような感覚があった。

無表情な東京の通勤電車に、ほんの少し、色が灯った。そんな気がした。

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