ガンと向き合う狩猟家・幡野広志さんの写真展「いただきます、ごちそうさま。」に行って

2018年4月14日土曜日

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猟銃の銃弾を持ってみて

銃弾を持ち上げてみると、予想よりもずっしりとした重い感触が伝わってきた。

学校や公民館でときどき見かける、「金物(かなもの)」という表現がぴったりの安物のお鍋。それと同じ色をした、のっぺりとした金属の塊。

「この無機質なものが、暖かくて柔らかい肉の中を突き破っていくんだな」。

その鈍い光を見ているうちに、ふと、自分のお腹をこの金属塊が突き入ってくる想像が浮かんだ。


 実際に撃たれたら、痛みで頭が真っ白になるだろうから、そんな悠長な観察はしていられないのだろう。

でも、呼吸するたびに生き生きと動く自分の肉と、このもの言わぬ金属塊は、なかなか相容れないような気がしてしまうのである。

写真展「いただきます、ごちそうさま。」

4月12日木曜日は、いつもより少し早く退社。その足で東京・日本橋にあるアートギャラリー「ego – Art & Entertainment Gallery」へ行った。

写真家で狩猟者でもある幡野広志さんという方の写真展「いただきます、ごちそうさま。」を見に行くためだ。


昨年、このブログで鶏の屠殺経験について書いた。

肉を食べることに関する整理のつかない感情:鶏の屠殺体験(1)

 生き物が食べ物に変わる瞬間:鶏の屠殺体験(2)

 切ない死に顔が教えてくれたこと:鶏の屠殺体験(3)

 このとき、色んなことを考えさせられた。

ただ、「生きるために、他の動物を殺す」ということに関して、自分は、まだなにか結論めいた答えを出せているわけではない。

最近、米国人の若いヴィーガンの方と話す機会があった。「動物を殺すのはかわいそうだから」というシンプルな動機で肉食をやめた彼女に比べ、自分はなんだかんだ理由をつけて、以前と変わらない生活を続けている。

「肉っておいしいじゃん」「仕事が忙しいんだから、そんな余計なことを考えてらんないよ」「万年金欠人間で、ちょっとでも食費減らしたいんだから、」

そんなだらしない、不真面目な気持ち(というか、今までの生活を変えるのが面倒だという惰性)も、自分の中で強く働いてる。

ただ、一方で、「鹿の獣害とか散々騒がれているし、食物連鎖みたいな生物界の仕組みもあるし、まったく肉を食べないっていうのも、正しいとは思えない」という考え方に共感を覚える自分もいる。

また、屠殺を自ら体験してみたことで「命を提供してくれた動物たちが、自分に大切なことを教えてくれた」という思いもあった。

そんなあれこれで、もやもやした思いを抱えながら相変わらずの生活が続いているのだがFacebookのイベントページでこの写真展の情報が流れてきたとき、思わず目を惹かれた。

さらに、幡野さんは、まだ30代なかばながら、ガンに侵され、今は闘病生活中であるという。
(「闘病」という表現が正しいかは分からないが)

工場の中で屠殺され処理された牛のステーキなどを頬張りながら、「狩猟とか屠殺ってチョー残酷でチョーキモい」とか言うのではなく、命を奪うヒリヒリした現場に身をさらしてきて、今は、自分自身の命に深く向き合っている人。

そんな人が、今、この世界をどのように見ているのか、とても気になった。

とはいっても、彼の写真を見て、自分の中になにか結論が出たわけではない。

ただ、今後、自分がこのことに向き合い続けるうえで、今回の写真展で感じたことを残しておきたい。

 (多少見るのが辛そうな写真は、一番最後にまとめて掲載します)

内蔵を雪の上に

アートギャラリー「ego – Art & Entertainment Gallery」はとても小さなスペースで、展示された写真も30点ほどだったと思う。

一つ一つをじっくり見つめていると、狩猟の現場の厳粛さと同時に、猟師の方々の、ちょっとリラックスした雰囲気も含めた息遣いが伝わってくるようだった。

鹿の内蔵を取り出し、雪の上にさらしている写真もあった。実物ではなく、写真という形で見ると、血の鮮やかな赤色と雪の白さが、アートのように見えるから不思議だ。

これらの写真を見つめているうちに、以前、鶏や鹿の解体ワークショップに参加したときのことを思い出した。

羽毛や毛皮をむしり取り、表皮を切り裂くと、内臓が表に出てくる。内臓の色というのは、なんだか信じられないほど鮮やかな美しさを湛えているのだ。

それを見ていると、ふだんの世界と別次元のなにかが現出しているような感覚にもなるが、一方で「人間も、動物も、一皮むけば、同じなのかもしれない」と感じて、ふと、写真に映された鹿の、命の火が消えた姿などに、親しみを覚えた。


「人生には生きる価値があると確信している」

会場に掲げられていた、印象的だった幡野さんの言葉を紹介したい。

「鉄砲で狩猟をする行為には動物の”死”があり、その先には狩猟者の”生”がある。
カメラで写真を撮る行為には写真家の”生”があり、その先には写真家の”死”がある。
カメラと鉄砲は似ていると言ったが、本質的には全くの逆であることに最近気付いた。
どちらも経験した上で、ガンにならなければ気づかなかったことだと思う。

生きるということは一体どういう意味があるのか?
まだこの答えは見つかっていないが、人生には生きる価値があると確信している。」

彼のブログの、この部分も忘れがたい。

写真展のお知らせと“自業自得”

 最後の狩猟。

 「以前ブログに書いたことだけど、僕は狩猟者が嫌いだ。
命を奪った動物の生殖器であそぶ狩猟者もいる、他の狩猟者の違反を行為を見つけては喜び炎上させようとする狩猟者もいる。
狩猟者にカスがいるように、菜食主義者にもカスがいる。
もちろん素晴らしい人格者もいる、それは狩猟者も菜食主義者も同じことだ。
日本中の全ての業界や現場で言えることだ、人間とはそういうものなんだ。

だからこそ、自分と宗教や食事の主義が違っていても、相手が動物であろうと敬意を払うことを忘れてはいけない。」


やっぱり、この写真展を見ても、自分の中では、なにか結論めいたものが出たわけではない。(無理やり結論を出して、分かったようなフリをしたくもない)

ただ、同じ30代で、死に向き合っている方の息遣いのようなものに触れたことは、多分、自分の中に重りを残していくのだろうと思う。

(幡野さんの写真を見ながら、34歳で亡くなったSF作家の伊藤計劃、37歳で亡くなった詩人の宮沢賢治という、自分の心に残り続けている2人の作家について思いを巡らせたことも、最後に書き添えておきたい)



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