【今週の感謝】野山をはだしで歩く/"1日ラマダン”(断食)をして

2018年4月8日日曜日

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4月2〜8日

一日瞑想会で、野山を裸足で歩く

今日は、月に一度の瞑想会の日。午前中は別件があったので、午後から参加した。

瞑想会についてはこちら:
不安との向き合い方:マインドフルネス瞑想について

瞑想会の場所は、小田急線の鶴巻温泉駅から徒歩で20分くらいの場所だが、周りはちょっとした山になっている。

昨日の強風が収まり、今日の風は穏やかだった。

駅から歩く途中、木立が風に揺れる音が美しく響いた。軽く目を閉じていると、「まるで、音の海を歩いているみたいだ」と感じた。


瞑想会では、歩きながら「今ここ」にある自分の命や、自分を生かしてくれている世界を深く感じる「歩く瞑想」を行う。

瞑想会へ向かう道すがらに感じた美しさを思い浮かべながら、「こんなすてきな日を、なるべく五感いっぱいに感じたい」と思い、今日は「歩く瞑想」を裸足でやってみることにした。

瞑想会の会場である家(「ゆとり家」)の前で、靴を脱ぎ、アスファルトの上に足をおろしてみると、自動車のエンジンのような熱を感じた。

それから、山に入る道の、草むらのなかに足を下ろす。すると、草のひんやりした体温が伝わってきた。

はじめは少しハラハラしていたが、だんだん、草のやわらかい感覚に慣れてきた。


草も種類によってやわらかさが異なる。

そんなことを確かめながら、最初は歩いていたが、慣れてくるに従って、だんだん、自分がこの世界に深く、溶け込んでいくような感覚になった。

すると、「キョッキョッキョ」という鳥の鳴き声が、鮮明に耳に響くようになった。4月の新緑の草の匂いも、にわかに沸き立ってきた。

ふだんは、脳の中は将来の心配事でいっぱいだ。

でも今日は、五感から入ってくる春の気配に、自分の体が満たされているような気がした。

「歩く瞑想」の最中は、参加した仲間の1人にインストラクションしてもらって、体をリラックスさせるヨガを行った。

体を左右にぐるぐる回したりすると、いつも以上に、力が抜けた気がした。

すばらしい時間をくれた瞑想会の仲間たち、そして美しい野山を包む世界に、改めて感謝した。

もっとも、野山を歩いていると、何度かバランスを崩しそうになり、足を踏ん張らせているうちに、足裏の筋肉がつりそうになったのは、笑い話だ。

1日”ラマダン(断食)”を実施


「4月7日の日の出は約5時20分。日の入りは約18時20分」。

一昨日の夜は、スマホでそんなことを調べながら眠りについた。

自分の体をデトックスしたいと思い、昨日は、夜明けから日没まで断食・断飲する”1日ラマダン”(筆者が勝手に命名)を実施した。

断食は、変なやり方を取ると健康にとって逆効果になることもあるので、基本的にはしっかりしたメソッドに則ったり、トレーナーについたりしたほうが良いと思う。

ただ、「まあ一日だからいいか」というのと、個人的にムスリムの知り合いがおり、ムスリムの文化に敬意を抱くようになったことから、このような形でやってみたくなったのだ。

(なお、「ラマダン」はムスリムの断食月の意。)

昨日は、夜明け前に一度起きて水を飲んで、また寝た。完全に起きたのは、8時前だった。

実は、去年の暮れにも、”1日ラマダン”をやったことがある。

そのときは、あまり食欲がない時期だったので、それほど辛いと感じなかった(むしろ、脳が冴えて、仕事の効率が上がった)。

ただ、春になって暖かくなってきたからか、今は食欲がある時期だ。そのため、今回は空腹感がこたえた。

午前中は、パソコンで作業をやっていたが、昼が近づくにつれ、だんだん空腹感がつのってきた。

午後は、渋谷の英会話カフェに行ったが、お腹のあたりが落ち着かないうえ、全身がだるくなってきた(多分、血糖値が下がっていたのだと思う)。

ただ、16時過ぎから1時間ほどヨガをやると、自分でも予想しなかったほど、爽快な気分になった。空腹感は残っていたが、だるさがなくなり、なんだか体が軽くなってきた。

ヨガの後は床屋に行って髪を切り、近くのデパート内のベンチに座ってブログを書いた。そうこうしているうちに、日没の時間が過ぎた。


ムスリムのラマダンでは、日没を過ぎた後はどんちゃん騒ぎになるらしい。それを真似した訳ではないが、「何か旨いものが食べたいな」と思い、美味しそうな看板を出していたカツ丼屋に入った。

(ふつう、断食後にいきなりカツ丼などの脂っこいものを食べてはダメだと思うが、「1日だけだし、まあいいか」と思ったのだ)

いつもは外食に行っても、1食で1,000円を越すなど言語道断の生活をしているが、この日は1080円(税込)の、ちょっとだけ豪華なメニューを注文。


いつもは、美味しいものを口にすると、ついガツガツとかき込んでしまうのだが、この日は、よく噛んで、ゆっくり味わって食べた。

(このとき食べたトンカツは、油がまったくしつこくなく、あっさりしていて、とても食べやすかった)

美味しいものを味わえる胃があることは、決して当たり前のことではない。

また、こうして美味しいものを食べられるのは、食肉になってくれた豚や、その豚を育てた農家の人たち、それを流通させた人たちや、調理したお店の人たちなど、さまざまなモノ・人のおかげである。

また、世の中には、貧しさなどの社会情勢のため、美味しいものを食べるなど夢にも期待できない人も存在する。

胃袋が満たされ、少し眠たくなりながら、そうした一つ一つのことに感謝をした。


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