自然が生み出す多様性

2017年10月15日日曜日

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「この芽みたいに見えるところは、枝が出ようとして何らかの理由で幹の中に留まったか、あるいは枯れた枝が成長過程で幹の中に巻き込まれたものです」

10月12日の夜、東京・清澄白河のリトルトーキョーで開催された「樹皮ナイト」に行った。

この日のゲスト、岐阜県郡上市にある「森林文化アカデミー」の学生である鷲見菜月さんは、前に「地球の仕事大學」という講座で一緒だった。
この日、リトルトーキョーに足を運んだのは、そのよしみもある。

だが、以前、ある展示を見たことをきっかけに、木という生命体に関心を抱くようになったことも大きい。


「木々との対話」での出会い


昨年(2016年)、上野にある東京都美術館で開催されていた展示「木々との対話ー再生をめぐる5つの風景」を見に行った。

ここでは、5人のアーティストが、彫刻など木を使った作品を展示していた。
個人的に好きな彫刻家である船越桂氏の作品があったのが、足を運んだ理由だった。

ところが、実際に行ってみて、一番印象に残ったのは、原木のような木を、ほとんど加工もせずに展示した作品だった。
(たしか、土屋仁応氏の作品だったような気がする。うろ覚えだが。。)

その木の曲がり方や、木目が作り出す模様は、どんな規則性にもうまく当てはめられない、眩しい生命感を放っているように感じられた。


人間の顔が一人ひとり、異なるように、木もまた、多彩な表情を持っている。
木の木目や年輪、幹の曲がり方も、一つ一つ異なる。

いろんな場面で「多様性」という言葉を聞く(政治や企業経営的な意味合いで使われることが多く、そのことを軽視する積りはない)が、僕が最初にイメージするのは、この、自然そのものが生み出す多様性だ。


原木を生かした樹皮付き積み木


鷲見さんがこの日紹介してくれたのは、樹皮がついたままの木でつくった積み木。

普通、玩具メーカーで市販されている積み木は、正方形・長方形・丸などの形に加工されていて、もともと森で生きていた状態を感じることは少ない。

それに対して、この樹皮付き積み木は、パッチワークをはめていくようにリジットな形で積むことはできないが、代わりに独自の形を作り出すことができる。

不規則であるが故にもたらされる生命感や、生き生きとした形に見えるので不思議だ。


さらに、鷲見さんによると、木の木目や樹皮のあり方からは、その木の人生が読み取れる、という。

冒頭に紹介したのも、その一つ。木の樹皮や、木目を見ると、
「どんな動物がかじったのか」
「いつの年に、いっぱい成長し、いつがあまり成長しなかったのかうまく成長できなかった」
など、森が織りなすドラマが想像できるという。


大量生産の論理から外れる


昭和の前半くらいまで、日本では、家や家具など生活に密着した形で木が使われていた。
けれども、コンクリートが普及した現代では、木の需要は減ってきて、廃業になった林業家も多いと聞く。

こうした中、最近は、木の利用方法を見直し、林業を再生しようという動きが起きている。
(例えば、藻谷浩介氏は『里山資本主義』で、木を燃料として使うバイオペレットの取り組みを紹介している)


今回の彼女の話は、こうした「木の利用の見直し」の流れの一つとして考えられるが、同時に、根本的に少しちがう論理も提示しているような気がした。


大量生産・大量消費の論理からいうと、一つひとつの木の個性(樹皮の形のちがい)は、はっきり言って、むしろ邪魔なものだ。

均一なサイズ・重さの木材であってこそ、汎用的に使うことができ、工業生産の効率を上げ、コストダウンを図ることができる。


でも、個性そのものが残るからこその、意味もあるのではないか。

それを考えさせられたのは、先日読んだ、あるブログ記事の一節だ。

南アフリカのノーベル文学賞作家、ジョン・M・クッツェーの書いた『動物のいのち』という本に関する書評だ。

「ある人間が、ヒトではないけれども個性をもった動物を、一個の主体として見ずに、たんなる無名の対象物としてしか関係しないとすれば、その動物のほうではなく、ほかならぬ人間の側こそが、『個性的存在性』を喪失しているのである」
(「動物のいのち」のリフレクションズ、バーバラ・スマッツ)

この『動物のいのち』は、まだ読んでいないけど、近いうちに読んでこのブログにも書きたいな、と思っています)


他者や動植物を見る目というのは、同時に自己認識の写し鏡でもある。

他者の個性を真に受け入れられる人間は、自分の個性も大切にできる人間ではないだろうか。


僕達は、木を大量生産された均質の木材として扱うことができる。
でも、木を、確かに呼吸をし、水を吸い、太陽に向かって葉を広げていた一つ一つの生命として向き合うことができる。

そのように見つめ直すことで、逆に僕たちも生命を得るという場面があると思う。



こんなことを書きながら、自分自身はまったくこんなふうに外の物事に向き合えているわけではない。

先日このブログに書いたように、最近は、金欠や時間不足に追い立てられて、マックで100円のハンバーガーなどを、犠牲になった牛や鶏に思いを馳せることなく食べているのだから。


なので、いつものことながら、何か明確な答えを出すような書き方が、現時点でできるわけではない。

ただ、
「個性を大切にする社会」
「多様性を大切にする社会」
ということを考える時、こうしたレベルから物事を見つめ直していく、という作業が必要なような気がする。

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